大阪学芸高校理系特進コース卒業
成績優秀でチヤホヤされて大学受験をしたらまさかの全部落ちて浪人確定する。まるでテレビショッピングの洗剤なのかと思う程「全部」落ちました。
スパルタ教育と全寮制(,そして恋愛禁止?)で怪しさテンコ盛りの今はなき伝説の両国予備校大阪校に周りからの反対を押し切り、完全に興味本位で入校し、浪人生活を謳歌する。
校舎のある布施は裏が歓楽街という誘惑に勝つ訓練をするには、最高の学習環境の中で、切磋琢磨し、艱難辛苦に耐え、そして予定通り後半から全く勉強しなくなり、理系のくせに、外国語学部コースの女子がいっぱいいて華やかな雰囲気のクラスの人達とつるむようになり完全にデビューしてしまい、勉強どころではなくなり、英語だけで外国語系の学部を受験したらいいじゃないかと受験の3ヶ月前にひらめく。
この両国予備校の近所に夫婦で洋服を製造から販売まで手掛けるお店ができて、いつしかお店に通うようになって、オーナーに進路や将来について相談をすることになり、自分も同じようになりたいという思いで、大学受験して上京後に文化服装学院に行こうと決意する。
そして、迎えた受験シーズン、かの両国予備校で艱難辛苦に耐え、勉張に励んだんだから、という周りからの並々ならぬ期待を見事に裏切り、私は予定通り受験した大学にオール落ちた。まさか行く予定のなかった滑り止めの専修大学文学部英米文学科に入学させて頂く。
一般の複数科目で受験した方々と比較して英語ができ過ぎて、一番優秀なクラスに振り分けられたが、どの口が言うんだと思われることを承知でいうと,それでも授業が簡単過ぎて物足りず大学編入を考える。
慶應義塾大学文学部英米文学科に編入(のつもりが単位が足りなさすぎて,まさかの1回生からスタートすることになる)
同時に念願の文化服装学院服装科に入学し怒涛のダブルスクール生活をスタートする。
1限目から専門学校に普通に毎日通い、放課後にパチンコ屋で遅番のバイトをして学費を稼ぎ、深夜から早朝まで大学のホッケー部の練習をし、また朝は専門学校に行き、大学の授業は後輩に全面的にサポートしてもらい、「アナタはいつ寝てるんですか?」というまるで売れっ子芸能人のような生活を送る。
文化服装学院在学中の一番の思い出は新宿の歩行者天国でのゲリラファッションショーをしたことです。多くの仲間を募り、彼らをまとめて、新宿で歩行者天国になった瞬間のだだっ広い大通りをランウェイに見立てて、車道のど真ん中を堂々とモデルが歩くゲリラファッションショーは、近隣のデパートなどが大騒ぎになるほどの盛り上がりを見せました。
在学中はイベントやコンテスト、学園祭など精力的に活動し、毎日、時間を惜しんで昼夜問わず沢山の衣装を創作していました。しかし、この努力の延長線上に同校を卒業した著名人のようになれる未来はいない、努力と才能、スキルでは彼らのようにははなれないという厳しい現実を思い知らされる。
就職活動では、当時は就職超氷河期ということもあり、成績が優秀な学生でも専門知識のいらない販売員にしかなれないという状況で、かつ急進していたファストファッションの波に飲まれ、こだわりの洋服を作れば、高くても売れるという考え方が通用しなくなり、私も方向転換を余儀なくされました。
そこで、生活の安定と、将来独立して小さい店を持ちたいという目標もまだ諦めていなかったため、とりあえず資金を貯めるため佐川急便に入社。
当時の佐川急便は、収入はいいけど、「絶対にお前には続かない。キツいから辞めとけ。」、という友人、周りからのアドバイスが、逆に自分を試したいという好奇心もあり入社した。
文化服装学院服装科を卒業、と同時に慶應義塾大学文学部英米文学科を卒業!したかったがまだ3年生。就職するため通信制に変更して勉強を続ける予定だった。
佐川急便では、早朝から深夜まで、殆ど休むことなく、働き続けました。ただ、自分の中で「このままでは終わりたくない」という思いがあり、しかし今の生活のままでは何も始められないという葛藤もありました。居酒屋でたまたま見かけた地球一周の船旅のポスターを見たことがキッカケで、仕事を辞めて、世界一周の船旅に乗船することに決めた。
世界一周の船旅に乗船。その後、そこで知り合った仲間を訪ねて全国を回ったり、数年間世界中を旅行する。
しかし、数年間世界中を飛び回って自由な生活を謳歌している間に、同期の知り合いはみんな出世して、家庭や家を持ってました。そこで、歩合給で高給取りになることぐらいしか彼らに追いつける可能性がある方法を思いつかず、本格的に成果報酬型の営業をすることになる。車好きであったこともあり、高級輸入車の正規ディーラーで営業マンとしてキャリアをスタートする。
その後、その会社の事業譲渡に伴い、一旦退職扱いになったタイミングで、今後、家族が増えて、子育てをしていくことを考え、平日勤務で大手企業を対象とした自動車関係の人材派遣の営業をするようになる。
Web制作については、学生の頃から自分のビジネスを持ちたいとずっと思っていました。ただ、それを実現するためのハードルが余りにも自分には高過ぎると思ってました。世界中を旅している時も、ずっとこの生活が続くような仕事があればいいのになあと思ってました。Web制作をしようと思ったキッカケは、自分が憧れていた理想のライフスタイルがこの仕事をした先に手に入るかもしれないということを感じたからです。そうは言ってもお客様あってのWeb制作。ご依頼者様の目標達成ができるように、誠心誠意対応することを日々意識しております。